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● 心の雪が溶けるまで ●
小学五年生・夏(5)
「帰ってこないって? いつになったら帰ってくるの?」
「帰ってこないの。もう、帰ってこないの」
母が何度もそう告げる。
最初は、理解出来なかった。幼い幼稚園児の頭では、理解することが難しかったのだ。
けれど、何度も帰ってこないと言われ続ける内に知ってしまった。分かってしまった。
大好きなお父さんに、もう、会えないのだということを‥‥。
「何でっ? ねぇ何で帰ってこないの!?」
涙を堪えて母のスカートをギュッと掴む。
見上げた先には、唇を噛み締めた母の姿が見えた。
「お母さんっ!!」
涙が、零れ落ちた。頬を冷たい滴が伝っていった。
何も言ってくれない母のスカートを何度も引っ張る。
破れてしまうのではないかと思うぐらいの力で、何度も何度も、引っ張った。
「お母さんっ!! お父さんはっお父さんは!?」
「‥‥‥っ」
母の瞳が揺れる。けれど、必死に大声をあげる光希はそれに気付かない。
どうして父はもう帰ってこないのか? と。何度も問いただした。
涙は次から次から溢れてくるけれど、拭おうとはしなかった。
「何で帰ってこないのっ? 嫌だっ嫌だ!!」
涙でぐしゃぐしゃになった光希の顔を母は見下ろした。
母の目から、堪えきれずに涙が零れた。ポツッと降って来たその滴に光希は気付いた。
え? と思って声を止めた。止まることを知らなかった涙も引っ込んだ。
けれど次の瞬間、強い力でスカートを掴んでいた手を引き剥がされた。
「いい加減にしてっ!!」
「‥‥っ!?」
部屋中に響き渡った母の怒声。
光希はギュッと目を瞑り身体を縮こまらせた。怖い。そう感じた。
「帰ってこないものは帰ってこないの!! 何度も言わせないでっ!!」
恐る恐る顔を上げてみる。そして、母の表情を見た瞬間引っ込んでいた涙がまた溢れ出した。
今までで一番怖い顔をしていた。こんな母は見た事がなかった。
「でも、でも‥‥っ。お父さん居なくなるの嫌だもんっ」
一生懸命声を絞り出す。震える声は、ちゃんと母の耳に届いただろうか?
本当は、今の母に声をかけることは死ぬほど怖かった。
だけど、このまま何も言わなければ、本当に父は二度と帰ってこないような気がした。
だから、精一杯の勇気で光希は声を絞り出す。母の目をじっと見つめる。
「お父さん、帰ってこないの嫌だもんっ!」
「やめてっ!! もう帰ってこないのっ!!」
「嫌だぁ!! そんなの嫌だ!!」
必死に泣き叫んだ。届かない叫びだとは思いたくなかった。
大好きな父に、ただ、会いたかった。
「光希‥‥」
「‥ぅぇ‥‥っく」
泣きじゃくる光希を母はそっと抱きしめる。光希はギュッと母の服を握った。
涙は母の服に吸い込まれていく。嗚咽は、母に抱きしめられているためくぐもったものになった。
「いい? よく聞きなさい。お父さんはねっ‥‥」
静かに母は話し出した。
けれどその時の光希には、言葉の意味を理解することが出来なかった。
ただ、父は悪いことをしたのだと、それだけは幼いながらに知ることが出来た。
母が幼い自分に言ったことを思い出した。
そして、今なら理解出来るその言葉を自分の口から吐き出してみる。
『また』という声と共に‥‥。
「お父さん。また、借金したの?」
台所に立っていた母がゆっくりと振り返った。目と目が合う。
何の感情も、母の表情からは読み取れなかった。
「‥‥そうよ」
小さく口を開いた母の声。消え入りそうなものだったけれど、確かに届いた。
母はまた前を向く。思っていたよりも、落ち着いてその答えを聞くことが出来ていた。
「そっか。そう、なんだぁ」
呟きと共に、零れ落ちるものがあった。ポタリと床に落ちた滴を見つめる。
「そっかぁ」
拳を固く握り締めた。唇を噛み締める。
けれど、堰を切って溢れ出した涙が止まることは無かった。
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