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● 心の雪が溶けるまで ●
小学五年生・夏(6)
父が家に帰ってこなくなった理由を知った。
否、本当は知っていたんだ。ずっと、信じたくなかっただけで‥‥。
心の何処かで、ずっと前から理解していたんだ。
「何してるの?」
父が帰ってこない理由を知ってから数日後、母がせっせと縫い物をしている姿を見つけた。
何気なく声を掛けてみると、ちくちくと塗っていた手を止めて母が顔を上げた。
「ん? テディベアを作ってるのよ」
「ふーん。何で?」
あの日、父が借金を残してまた居なくなってしまったということを光希が知ったせいか、母の肩に乗っていた
荷が少しだけ軽くなったようだ。
まだ少し疲れたような表情をしているが、前よりは随分とよくなった。
やはり、自分の胸の内だけに留めておくには精神的に辛かったのだろう。
「知ってる人の店にね、作ったやつ置いてもらえるって言われたから」
また縫い物に集中し始めた母の横顔を見つめる。
母は専業主婦だ。父が働いて、家庭を支えていた。
けれど、今は父が居ない。つまり、収入源が途絶えてしまったということだ。
そのために、母が少しでもお金を作ろうとして頑張っている。
光希は知っていた。首を悪くしている母にとって、下を向いて行う作業がどれだけ辛いことかということを。
「光希? どうしたの?」
「え? あ、肩でも揉もうか?」
気がつけばそう答えていた。
返事を待たずに母のもとへと近づき、さっと背中のほうにまわり肩に手を掛けた。
「え、何? どうしたの、急に」
「いいからいいから」
気持ち悪いわねぇ。とぶつぶつ呟きながら、母は縫い物をしていた手を休めた。
そんな母を光希は何ともいえない表情で見下ろしていた。
********
もうすぐ夏休みが始まろうとしていた。そんな暑いある日のことだった。
光希が友達と別れて自宅の前までやってきた時、見知らぬ男性が玄関口で母と話しているのが見えた。
誰だろう? セールスか何かだろうか?
そんなことを思いながら母たちに近寄っていく。
「あ。お帰り」
「‥‥ただいま」
光希の存在に気付いた母がそう声を掛けた。
次いで、スーツを着た男性も振り返り光希のために道をあける。
光希は一応ぺこりと御辞儀をして通り過ぎた。
家に足を踏み入れると飼い猫のチロルが光希の足に擦り寄ってきた。
「にゃ〜」
「ただいま。チロル」
よしよしとチロルの頭を撫でてやる。そのまま手を顎のところに滑らせて掻いてやった。
チロルはごろごろと喉を鳴らして気持ち良さそうに目を細めた。
「光希。部屋にチロルを連れて行ってなさい」
「はーい」
ふわふわの毛をしたチロルを抱きかかえると光希は階段を上りだした。
チラリと後ろを振り返ると、母は客人と話し出したところだった。
何を話しているのかはまったく聞こえない。光希は少しだけ首を傾げてまた階段を上りだした。
自分の部屋のドアを開けて、チロルを降ろす。
チロルはすぐに光希のベッドの上に飛び乗って毛繕いをし始めた。
その仕草を見ると、口元に自然と笑みが浮かぶ。
光希は背負っていたランドセルを椅子の背に掛けた。
「再放送見たかったのに」
夕方にやっているドラマの再放送を光希は楽しみにしていた。
あと5分もしないうちに始まってしまう。あの客人はそれまでに帰ってくれるだろうか。
不機嫌そうに唇を尖らせた光希は、猫じゃらしを手に取ってチロルのもとに向かった。
「チロル」
ほらほらと言って猫じゃらしを振ってみせるが、今は遊ぶ気分じゃないようだ。
完全に眠る態勢に入っている。
「‥‥もうっ」
ドラマの再放送が見れない上にチロルも相手にしてくれなくて、光希は完全に不貞腐れてしまった。
ごろんとベッドの上に仰向けになる。
そのまま目を閉じて客人が帰るのを待っていると、光希はそのまま寝入ってしまった。
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