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● ただ君の幸せを‥‥。 ●
54.裏切りの日
「‥‥くん‥。‥‥達也君!!」
突如聞こえてきた声にハッとする。留美ちゃんの声だった。
視線を下げてみるとそこには、俺の服を掴んで心配そうに顔を覗き込んでいる彼女の姿があった。
これからデートだというのに、俺は少し考え込みすぎていたようだった。
「どうしたの? 体調悪い?」
「いや、大丈夫だから」
「本当に?」
「本当に」
「‥‥なら、いいけど」
そう言ったものの、まだ彼女は心配そうな表情をしていた。
だけど、その表情を見て俺の胸は締め付けられたように痛んだ。
そんなに俺を心配するな。錯覚してしまいそうになる。
愛されているのだと、錯覚しそうになる。
最愛の人であるはずの和樹より、俺を選んでくれたのかと思いそうになる。
そんなわけないのにな。そんなこと、あるはずがない。
だって俺は、お前たちが愛し合ってたあの頃を知っているから。
俺が、留美ちゃんにとって和樹と同じ域まで達していないこと、ずっと前から気付いてる。
留美ちゃんがいくら俺のことを好きだと言っても、愛を囁く彼女の瞳を覗き込むと、そこには俺じゃない誰
かが映っているような気がした。
留美ちゃんの心からの『好き』の言葉は、一生掛っても俺には届かない。
俺はそう確信しているから。
だから、‥‥だから。
留美ちゃんに別れを告げるのだ。和樹のもとへ戻れと。
優しい彼女はきっと記憶が戻ったことを言わないだろう。
自分の気持ちに素直になって幸せを掴むよりも、俺の心を心配してくれる彼女だから。
傷付かないなんて言えば大嘘になる。
今だって、死にそうになるくらい締め付けられた胸が痛い。
それでも俺は言わなくてはいけない。別れの言葉を。
彼女がこれ以上悩み苦しまないように、あいつがこれ以上俺達の姿を見て心を痛めないように。
ほら、言えよ。
和樹の記憶が戻ったんなら、和樹のもとへ戻れと。
それが俺の使命だろ? 違うのか、斎藤 達也。
「ねぇ、本当に大丈夫? 顔色悪いよ?」
「‥‥‥‥」
「‥‥達也君?」
心臓が、ばっくんばっくん音を立てる。
この大きさなら、留美ちゃんのところにまで届くのではないかと心配になる。
拳をギュッと握り締める。じんわりとかいた汗を手の平に感じていた。
「達也君?」
心配そうに、もう一度留美ちゃんは俺を覗き込む。
目が合った。思わず目を逸らしてしまいそうになる。けれど、逸らしはしない。
逸らしてはいけない。そのことを知っていたから。
ほら、今がチャンスだ。言うなら今だ。今しかない。
男らしく、潔く身を引くんだ。彼女に、少しでもいいから俺のことを惜しいと思わせるぐらいに。
「‥‥‥っ」
言葉が、出てこない。
言わなくてはいけない言葉を知っているのに、声に出せない。
その言葉を発することを、俺の全てが拒否していた。
「え、何‥‥。どうしたの?」
心配そうな表情を浮かべていた彼女が、驚愕の表情に一瞬で変わった。
恐る恐る手を俺に向かって差し出してくる。
そっとその手が、俺の頬に触れた。
「‥‥‥‥」
その時、漸く自分の身に何が起こっていたのか理解することが出来た。
冷たい雫が頬を伝っていた。それを見て、彼女は驚いたのだ。
「‥‥達也君。泣かないでよ」
「‥‥‥‥っ」
小さな彼女をこの腕で抱きしめた。
涙をこれ以上見られないように。あいつから、彼女の姿を隠してしまうように。
隠すことが、出来ればいいのに。あいつの目が届かない場所まで、逃げることが出来ればいいのに。
そうすれば、この罪悪感から逃れることが出来るだろうか?
「‥‥ごめんっ」
腕の中にいる彼女から、戸惑いを感じた。
そりゃそうだろう。いきなり泣き出して、謝って‥‥。
本当、意味が分からない。
けれど、優しい彼女は何も言わずに俺の背をさすってくれた。
その優しさが胸に痛い。こんな俺に、優しくなんてしてくれなくていい。
「ごめんっ」
ごめん、和樹。
許してくれなくていい。一生恨まれても構わない。
俺は、この腕の中の幸せを手放すことが出来ない。
お前なんか親友じゃないと罵って、どうか俺を許さないで。
神様、和樹を苦しめた罰はすべて俺が引き受けます。
だからどうか、彼女にだけは罰を与えないでください。
それが、親友の唯一の望みでもあるはずだから。
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